もくじ
マリー・ラリッシュ――追放された伯爵夫人
彼女の名前を聞いて、すぐに顔を思い浮かべられる人は多くはないでしょう。しかし、19世紀末のヨーロッパ宮廷社会において、彼女はある種の象徴でもありました。
皇后エリザベート(通称シシィ)の姪としてウィーン宮廷に迎えられ、華やかな生活を送っていたマリー・ラリッシュは、ある事件をきっかけにすべてを失います。1889年、皇太子ルドルフとマリー・ヴェッツェラが命を落としたマイヤーリンク事件――この悲劇に関与したとされ、彼女は「仲介者」として非難の的となり、社交界から姿を消すことになったのです。
その後の人生は、放浪と貧困、そして表現による自己弁護の連続でした。けれども、彼女は沈黙することなく、語り続けました。回顧録『Meine Vergangenheit(私の過去)』に記された彼女の言葉は、時代に背を向けられた女性の、強く静かな証言でもあります。
今回はそんなマリー・ラリッシュの生涯を、史実と記録をもとに振り返っていきます。
皇后の姪として生まれた運命
1858年2月24日、マリー・ラリッシュは、バイエルン王家の血を引くルートヴィヒ公と、舞台女優ヘンリエッテ・メンデルの間に生まれました。両親の結婚は王家に認められず、彼女は私生児として育ちますが、のちに「ヴァレルゼ男爵夫人(Freifrau von Wallersee)」の称号を授けられ、貴族社会の一員として位置づけられることになります。
彼女の人生を決定づけたのは、叔母にあたるオーストリア皇后エリザベートとの関係でした。皇后はこの姪を特に可愛がり、宮廷に引き取って手元で育てることにしました。ウィーンでの生活は華麗で、社交界でも注目の存在となったマリー。しかしその日々は、儚くも危うい均衡の上に成り立っていたのです。
婚姻と秘密――華やかさの裏にあったもの
1877年、マリー・ラリッシュは19歳で結婚しました。相手はボヘミアの貴族ゲオルク・ラリッシュ伯爵。皇后エリザベートの後押しもあって成立したこの縁談は、彼女にとって名実ともに貴族社会の中枢へ踏み込む大きな一歩でした。
けれども、この結婚生活は決して幸福なものではありませんでした。表向きは華やかな夫婦生活に見えても、その実態はすれ違いと冷えた関係が長く続き、次第にマリーは夫のもとを離れがちになっていきます。
彼女の周囲には常に人が集まり、そのなかには心を通わせた男性たちの姿もありました。特に、ある外交官や馬術家、さらには貴族の青年たちとの交流は、当時の社交界でもさまざまな噂を呼びました。
そうした関係のなかで、彼女は夫以外の男性との子をふたりもうけたとされています。その出生の真相が完全に明かされることはありませんでしたが、当時の慣習に従い、ラリッシュ伯爵はこれらの子どもたちを公式に自分の子として認知しました。体裁を守るための苦渋の選択だったのか、それとも彼なりの思いやりだったのか――それを知る者はいません。
やがて夫婦は事実上別居状態となり、1896年に正式な離婚が成立します。
マリーの男性遍歴は、今日の視点から見れば個人の自由であると評価されるかもしれませんが、当時の社会通念からすれば、特に宮廷に属する貴婦人としてはきわめて異例な振る舞いでした。そのことが、後の彼女の人生に少なからず影を落としたのは確かです。
しかし、恋多き女性というだけでは語れないのが、マリー・ラリッシュという人物の奥深さです。彼女は、伝統と束縛に縛られた世界の中で、自分自身をどう生きるかを問い続けた存在でもありました。感情に正直であろうとしたその生き方は、結果的に数々の誤解を招きましたが、それも男性の目からは彼女の魅力の一端だったのかもしれません。
たった一つの出会いが、すべてを変えた
左 ラリッシュ伯爵夫人 右 マリー・ヴェツェラ
マリーの運命が大きく揺らいだのは、1889年1月、いわゆるマイヤーリンク事件が起こったときでした。皇太子ルドルフと17歳の男爵令嬢マリー・ヴェッツェラが、郊外の狩猟館で遺体となって発見され、ヨーロッパ中が衝撃に包まれました。
ふたりを引き合わせたのが、マリー・ラリッシュだったとされています。もともと社交的で人間関係に積極的だった彼女は、ふたりの恋愛に協力的であったことを認めています。
けれども、悲劇の直後、彼女は責任を問われ、皇帝フランツ・ヨーゼフからの信頼を失います。そしてただちに、ウィーン宮廷から追放されました。
「皇后の姪」という立場を持ちながら、スキャンダルの中心人物として名を残すことになった彼女は、それ以降、歴史の表舞台から姿を消すことになります。
名門から放逐された女の長い放浪
宮廷から追われたマリーは、再婚を経て「マリー・マイヤーズ」の名で新たな人生を歩み始めましたが、世間の風当たりは厳しく、彼女の名声は失われたままでした。ヨーロッパ各地を転々とし、定職にもつかず、家族とも疎遠になっていきます。
やがて彼女は3度目の結婚をし、アメリカに渡ります。そこでも裕福な暮らしとはほど遠く、フロリダの荒れた土地に建てた小屋で、ノミと蚊に囲まれた生活を送ることになりました。
けれども、過去を忘れることはありませんでした。マリーはその後も、何度も手記や記事を執筆し、自身の視点から事件の真相を世に訴えようとしますが、皇帝フランツ・ヨーゼフに揉み消されてしまいます。
回顧録『Meine Vergangenheit』――語られた“もう一つの真実”
1913年、マリー・ラリッシュは自身の半生と事件について綴った回顧録『Meine Vergangenheit(私の過去)』を出版します。この本は、彼女の無念と誇り、そして執念の結晶とも言えるものでした。
「私はルドルフに頼まれて、彼とマリーを引き合わせただけ」と彼女は語ります。
それが真実であったのかどうかは今となっては確かめようもありません。しかし、彼女がこの回顧録で示したのは、あの悲劇に名を刻んだ女性として、声なきものたちの代弁者であろうとした意志だったのかもしれません。
宮廷はこの本の出版を快く思うわけがありません。以前も別の著作『Mispah』は、原稿ごと買い取られ、発行を阻止されました。事件後20年近く経ったのちの彼女の証言がどこまで信用できるかは議論の余地がありますが、唯一事件の内側を知る人物の語りとして、いまなお重要な資料とされています。
女優、脚本家、そして“告発者”
1920年代には、彼女は無声映画界にも関与するようになり、脚本を手がけたり、歴史映画の監修を務めたりした記録が残っています。中には、自ら出演した作品もあったと言われていますが、それらの映像は現存していません。
また、皇后エリザベートの私信を所持していたとされ、それをめぐって皇室側と水面下で交渉があったとも伝えられています。一部では「ハプスブルク家最大の恐喝者」とさえ呼ばれた彼女。書く事は追放され、黙ることを許されなかった者の、ある意味での“抵抗”だったのかもしれません。
最後に残ったのは、“あの伯爵夫人”という記憶だけ
1940年7月4日、マリー・マイヤーズ(旧マリー・ラリッシュ)は、ドイツのアウクスブルクで、静かにその生涯を終えました。享年82歳。かつて宮廷に輝いていた姿は遠く、最期は孤独と貧困、そして無名のなかにあったとされます。
しかし、彼女の人生は一冊の回顧録と、いくつかの証言、そしてマイヤーリンク事件の影に寄り添う形で、今も静かに語り継がれています。
スキャンダルの傍に立ち続け、時代に翻弄され、語られることのなかった視点を残した女性
マリー・ラリッシュの証言はマイヤーリンク事件の貴重な証拠の一部と言える事でしょう。
「私はただ、彼らを結びつけただけだった。それだけで、私はすべてを失ったのだろうか?」
―― マリー・ラリッシュ著書『Meine Vergangenheit』より
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