沈黙という愛——ミッツィ・カスパル

マイヤーリンクの悲劇

記憶の片隅に追いやられた存在

世間の多くの人が、オーストリア皇太子ルドルフの名を耳にすると、あの「マイヤーリンクの悲劇」と、共に命を絶った若き男爵令嬢マリー・ヴェッツェラのことを思い出すのではないでしょうか。その物語はロマンチックな悲劇として語られ、「現代のロミオとジュリエット」と評されることもあります。

しかし、その陰で、もう一人の重要な女性の存在がしばしば見落とされています。彼の長年の恋人であり、深い信頼関係を築いていたミッツィ・カスパル(Mizzi Kaspar)という女性です。彼女は上流社会の男性たちの庇護のもとに生きる高級娼婦でした。

人々が彼女に対して「ただの娼婦」として冷淡に扱う一方で、ルドルフ皇太子が彼女に注いだ愛情と信頼は、想像以上に深いものであったように思われます。

本日は、その沈黙の裏側にある彼女の強さ、優しさ、そして歴史の断片に埋もれた彼女の姿を、丁寧に掘り起こしてみたいと思います。

運命の出会いと贈られた邸宅

ミッツィとルドルフが出会ったのは、1886年のことでした。当時の彼女は20代前半のエキゾチックな顔立ちの女性でした。ルドルフは彼女に一目で惹かれ、やがて二人の関係は親密なものとなっていきます。

翌年の1887年、皇太子は彼女のために、ウィーンの中心部にあるホイムュールガッセ10番地に、三階建ての豪奢な邸宅を贈ります。この邸宅は6万グルデンという巨額をかけて購入されたものであり、当時としては破格の贈り物でした。

さらに彼女には、宝石や現金といった形でも13万グルデン相当の贈与があったとされており、その合計は20万グルデン以上にも上ります。これは単なる情事に費やすにはあまりにも過剰であり、ミッツィが彼にとって特別な存在であったことを物語っています。

死の影と、彼女の勇気ある選択

1889年1月、ルドルフ皇太子は、精神的にも肉体的にも極度の疲弊に陥っていました。彼は性病を患っており、その影響で深刻な神経症状や抑うつ状態に悩まされていたといわれています。また、政治的な行き詰まりや父・フランツ・ヨーゼフ1世との確執も、彼を絶望へと追いやった要因でした。

そのような中、彼はミッツィにこう告げます。「一緒に死んでほしい」と。

ミッツィは、最初は冗談だと思って笑い飛ばしたそうです。しかし、彼が真剣だと気づいたとき、彼女は恐れを抱きながらも警察へ通報しました。当時の立場から考えると、それは非常に勇気のいる行動だったことでしょう。娼婦として社会的に軽視されがちな立場でありながら、彼女は彼を救おうとしたのです。

残念ながら、その通報は警察によって黙殺され、事態の打開には至りませんでした。しかし、この行動一つをとっても、ミッツィの人間性と、ルドルフに対する深い思いやりが感じられます。

最後の夜、別れの儀式

1889年1月27日の夜、ルドルフはミッツィのもとを訪れます。彼は深夜までシャンパンを飲みながら彼女と過ごし、部屋を管理していた人物には口止め料として10グルデンを渡したと記録されています。

別れ際、ルドルフは彼女の額に十字の印を記し、静かにその場を後にしました。彼にとって、それはまるで葬送の儀式のような、最後の別れだったのでしょう。

そして翌日、彼はウィーンを出発し、マイヤーリンクへ向かいます。その地で彼は、若きマリー・ヴェッツェラと共に命を絶ちました。

沈黙を貫いた人生

ミッツィ・カスパルは、その後、皇太子に関する一切の取材を拒否し、回顧録や手紙も残さないまま、ひっそりと人生を送りました。結婚もせず、子どももおらず、42歳の若さで梅毒の合併症によって亡くなったとされています。

彼女が何も語らなかったことについて、歴史家の間では「惜しい」と言われることもあります。しかし、私はむしろ、その沈黙に気高い美しさを感じます。名声やお金のためにルドルフとの関係を売り物にせず、あくまで彼との時間を、自分の中だけの記憶として守り抜いたのです。

彼女の墓は現在は存在しておらず、残されたのは、わずかな写真と、彼女を知る人々の断片的な証言だけです。

死を共にせず、生きることを選んだ愛

マリー・ヴェッツェラとの心中が「真実の愛」として美化されがちな一方で、私は思います。本当に彼を愛していたのは、生きることを選び、彼の死を止めようとしたミッツィではなかったのかと。

ルドルフは、死の間際にミッツィ宛ての別れの手紙を書き、その中には愛情深い言葉が並んでいたと伝えられています。それは、彼の心が最後まで彼女に向けられていた証ではないでしょうか。

愛とは、必ずしも命を捧げることだけではありません。誰かの命を守ろうとすること、生き延びること、それもまた、深い愛のかたちなのだと思います。

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