西洋美術史の中でも、ピーテル・ブリューゲルの《バベルの塔》ほど、多くの人々に知られ、語り継がれている作品はそうありません。ウィーンの美術史美術館に所蔵されているこの絵は、1604年にはすでにハプスブルク家のコレクションに加わっており、同館の豊かな収蔵品群の礎を築いた重要な一点でもあります。
旧約聖書「創世記」に登場するバベルの塔の物語は、人間の傲慢さ、すなわち神の領域に到達しようとする野望をテーマにしています。それに対して神は言語を混乱させ、互いに意思疎通ができなくなった人間たちは塔の建設を断念せざるを得なくなります。この象徴的な物語は、芸術家たちによって幾度となく描かれてきましたが、中でもブリューゲルの表現は極めて独創的です。
彼の手によるバベルの塔は、建築の壮大さと破綻の兆しが同時に描かれています。塔の構造はすでに基礎の段階から不安定で、何度も補強されたような痕跡が見られます。大勢の人々が作業に従事しているにもかかわらず、それはもはや完成の見込みのない計画であることが、画面全体からひしひしと伝わってくるのです。
そして、この塔の中では、すでに人々の暮らしが始まっているようにも見えます。料理をしている人、洗濯をしている人、作業中の人、休んでいる人──顔の表情こそ判然としませんが、そこには確かに生活の営みがあります。塔は単なる建築物というより、一つの都市、いや小さな社会と呼べる存在です。
実は私自身、時間があるときには美術史美術館を訪れてこの《バベルの塔》を眺めるのが最近のマイブームになっています。何度見ても飽きることはなく、そのたびに新たな発見があります。「あれ?こんなところで料理していた人がいたのか」「ここで一人、休んでいる人物がいるぞ」と、観察を重ねることで作品の奥深さがどんどん開かれていくのです。
興味深いのは、ブリューゲルが生涯でこのバベルの塔を3回描いているという点です。その中で現存する2作品、ウィーン版とロッテルダム版は対照的な性格を持っています。
ロッテルダムに所蔵されている《バベルの塔》は、まるで神の視点から見たような小さな塔として描かれています。色彩は暗く、空気は重く、どこか不穏で冷たい雰囲気が漂っています。塔はほぼ完成しているものの、神の目にはそれが取るに足らない存在に見えるのでしょう。形式もミニチュア的で、紙に描かれた緻密な細密画のようです。
一方で、ウィーン版の《バベルの塔》は、人間の目線から見た、圧倒的な巨大建築物です。まるで一つの都市、あるいは都市国家のような存在感を持ち、周囲の家々や港町との比較によって、そのスケールの異常さが際立っています。この塔にはまだ「建設途中」という動きがあり、明るい色調の中に希望とも錯覚ともつかない人間の活力が満ちています。
つまりこう言えるかもしれません。ロッテルダムの塔は「神の目に映る、ちっぽけな人間の営み」を象徴し、ウィーンの塔は「人間の目に映る、果てしなく巨大な理想の象徴」であると。
なお、ウィーン版は18世紀に上部と右側が切り取られており、当初はさらに大きな作品であったことが推測されています。今もその断ち切られた部分の存在を思うと、完成しなかった塔とどこか重なるように感じられます。
この作品に安定や安心感を求めようとしても、それは見つかりません。どこかに理性や秩序を感じさせる支えを探そうとしても、結局は、描かれているのが「壮大で無意味な努力」そのものであることに気づかされます。
それでも私はこの絵に強く惹かれます。人間の愚かしさと情熱、虚無と希望が一枚の絵に同居している──そんな矛盾が、この《バベルの塔》という傑作を時代を超えて魅力的なものにしているのだと思います。
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