ウィーンのシューベルティアーデ

シューベルト

ウィーンには、劇場のきらびやかな歴史とは別に、もうひとつの静かな音楽の集いがあります。
それは、大きな舞台ではなく、誰かの家の一室から始まった小さなコンサート。
後に「シューベルティアーデ」と呼ばれることになる、親密な人たちだけに捧げる音楽会です。

文献で確認できる最初のシューベルティアーデは、1821年1月26日、フランツ・シューベルトの友人フランツ・フォン・ショーバーの住まいで開かれました。


当時シューベルトはまだ21歳。
この一夜が、のちに数えきれないほど繰り返される音楽の集いの原点となります。
この小さな集まりはやがてシューベルトにとって、欠かすことのできない心の拠り所となっていきました。

シューベルトとショーバーは同い年。
名前が似ていることを冗談にし合うほど気の置けない仲でありながら、互いの才能や生き方には深い敬意を抱いていました。


シューベルトは、遺産によって経済的に自立し自由な生活を送るショーバーを少し羨ましく思っていたとも伝えられています。
一方のショーバーは、安定よりも創作の自由を選び、教師の職さえ辞めてしまうシューベルトの大胆さに強い敬意を抱いていました。


19歳で実家を離れたシューベルトを自宅に迎え入れたのも、このショーバーでした。

当時のウィーンには、今日のようなコンサートの文化はまだ根付いていませんでした。
音楽は劇場ではなく、貴族や上流市民の家のサロンで楽しまれるものであり、ピアノは家庭の中心に置かれていました。


ショーバーの家も例外ではなく、そこに若き作曲家シューベルトが住むようになったことで、自然と人が集い始めます。
彼はすでに200曲近い歌曲を書いており、その才能に惹かれた仲間や愛好者が、周期的にこの家に集まるようになりました。


こうして生まれたのが「シューベルティアーデ」と呼ばれる夜の集いです。

しかし、この集まりは単なる音楽会ではありませんでした。
ウィーン会議後の体制下では言論や集会への監視が厳しく、人々が自由に意見を交わす場は限られていました。


そのため、私的な音楽の集まりという形を取りながら、そこでは政治や社会、思想についての率直な議論も交わされていたのです。


音楽は、人々が自由に語るための静かな隠れ蓑でもありました。
シューベルトにとってシューベルティアーデは、作品を発表する場であると同時に、仲間と心を通わせる社会的な受け皿でもあったのです。


それは彼の人生において不変の存在となり、精神的な支柱となっていきました。

この親密な空間に欠かせない存在が、バリトン歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグルでした。


年齢は離れていましたが、彼はシューベルトの才能を早くから見抜き、その歌曲を力強くも温かい声で歌い広めました。
シューベルトがピアノを弾き、フォーグルが歌う――その時間は、当時の人々にとって忘れがたい体験だったといわれています。

そして、この言葉は私にとって単なる歴史用語ではありません。


私がウィーンに来た当初、同じ建物に住んでいた大家さんが、年に二度ご自宅でホームコンサートを開いていらっしゃいました。


大家さんはプロの音楽家ではありませんでしたが、有名な歌手のレッスンを受けながら音楽を深く愛しておられる方でした。
その夜には時折、著名な歌手や演奏家がふらりと現れ、音楽は夜更けまで続きました。
贅沢なことに私は毎回参加させていただき、音楽と人が自然につながる時間を体験しました。

今振り返ると、あの温かな空間こそが、時代を越えて今も息づくシューベルティアーデだったのだと、静かに思うのです。

 

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