ウィーンにあるいくつかのベートーヴェン博物館で、私がお勧めする博物館の一つはウィーンの北の森にあるハイリゲンシュタットの『ベートーヴェンの遺書の家』Haus des Heiligenstädter Testamentsです。背景にブドウ畑が広がる田園風景があり、かつて温泉保養地だったこの地域で、聴覚を失いつつあるベートーヴェンが療養のために住んでいたアパートが現在博物館になっています。
何故、遺書の家と呼ばれているのか簡単に説明しますと
22歳の時からウィーンに拠点を移し、音楽家として成功の道を歩んでいたベートーヴェンは26歳ごろから次第に耳が聞こえずらくなります。音楽家として聴覚を失うことが致命傷になると分かっていた彼は、周りの人に気づかれないために、人との距離を置き始めました。
数年後、ついにベートーヴェンの友人の一人で医者でもあったシュミット氏に難聴である事を打ち明けます。シュミット氏が温泉療養を勧めたため、ハイリゲンシュタットに引っ越しをしたのです。しかし聴覚は一向に良くならず、むしろ悪化していきました。
ある日、アパートの近くにある教会の鐘の音がいつもの時間になっても聞えません。不思議に思ったベートーベンが教会まで行ってみると、鐘は左右に大きく揺れていました。
ほとんど耳が聞こえないことに絶望したベートーベンは1802年、32歳の時にこの家で弟と甥宛に遺書を書いたのです。
今回は「ハイリゲンシュタットの遺書の家」博物館についてご案内したいと思います。沢山ある展示物の中で、特にこれだけは見て頂きたいものにスポットを当てました。
※ハイリゲンシュタットの遺書の家は2017年にリニューアルされ、全部で6室から成り立っています。展示物もかなり充実しており、ベートーベンファンの方のみならず、音楽ファンには大変人気のある博物館です。
もくじ
第一室「ANKOMMEN」
第一室に入りましたら、写真の奥にある機械の取っ手を持ってグルグル回してみて下さい。ピアノソナタ17番第三楽章「テンペスト」の音楽が流れてきます。ベートーヴェンの弟子であったツェルニーが「ハイリゲンシュタット滞在中に窓から見える馬車の規則正しい走りを見てこの曲を着想した」と書き残しています。
ベートーヴェンが22歳の時、生まれ故郷ボンからウィーンに到着した際の様子が展示されています。それからベートーヴェンはウィーンを拠点に音楽活動をします。ベートーヴェンはその前にも一度、17歳の時にモーツアルトのレッスンを受けるためにウィーンを訪れていますが、母親の危篤の知らせを受け、レッスンを受けずにボンに戻っています。
この建物はかつて自家製のパンを販売するパン屋さんだったそうです。
第二室 「Erholen」休息
この時代は貸アパートには家具、食器などが全て備わっていたので、スーツケース一つで引っ越すことが可能でした。ピアノだけは上の写真のように運んできたようです。
ベートーヴェンは天気の良い日には上記の絵のように近所に散歩に出かけ、頭の中で曲を構想していました。交響曲「田園」第二楽章は散歩道にある小川からインスピレーションを受けています。現在、その散歩道はベートーヴェンの散歩道(Beethovengang)と呼ばれています。
ここに引っ越しをする前の同年1802年、ベートーヴェンはイタリア出身の貴族出身で教え子でもあったグイッチャルディに大失恋をしています。彼はこの彼女に無償でレッスンをし、ピアノソナタ「月光」を捧げています。ある日、彼女の母親はベートーヴェンの留守宅に多額の金額をレッスン代として置いていきました。この時ベートーヴェンは身分違いの恋が成就出来ない事よりも、彼女への無償の愛の証がお金に換算された事に深く傷ついたのです。
ベートーヴェンにとって、ハイリゲンシュタットでの療養は耳の治療と心の深い傷を癒す意味があったのでしょうね
第三室 「Komponieren」作曲
ベートヴェンの部屋は写真のようではなく、いつも散らかった状態でした。まにた彼は五線紙のみならず、頭に曲が浮かぶと壁でもどこでも音符を書き始めたそうです。この部屋にある5つのペダルを持つシュトライヒャー製のピアノにはベートヴェンの聴覚を補助する器具【プロンプターボックス】が設置されています。
1817年、ドイツのメルツェルが発明したメトロノームはベートーヴェンが最初に使用したと記録が残っています。難聴で音が聞こえずらくなったベートヴェンにとって視覚的にテンポを把握出来るメトロノームは作曲する際に役に立ったようです。また、自分が作曲した曲をいい加減なテンポで演奏されないように、数値化した「正確なテンポ(メトロノーム表示)」を記載したともいわれています。
メトロノームを発明したメルツェルの弟、レオナルド メルツェルがベートーヴェンのために作成した補聴器。
1802年10月 日々悪化していく難聴と治療手段がない事に絶望した彼は弟と甥のカールに宛て遺書を書きます。この遺書は投函されず、ベートーヴェンの死後発見されました。そこには病の苦悩と絶望感だけでなく、人間関係の不信感、距離を置かざるを得ない理由など、ベートーヴェンの心の叫びが書かれています。
普通、遺書は死んだ時のために残すものです。しかし、ベートーヴェンが遺書の中にはっきりと書かいた文章『音楽の女神ミューズが私を死から救ってくれた。。。』から分かるように、ベートーヴェンは苦悩を受け入れ、耳が聞こえない運命を受け入れる、今までとの決別を自分のために遺書として、したためたのです。
絶望という言葉では足りない、彼の心の叫びが文章から伝わってきます。この遺書は生涯ベートーヴェンの手元に置かれていました。その後、彼の作品は古典的な型にはまったスタイルから、ドラマチックで情熱的な初期ロマン派スタイルへと変化し、「英雄」「田園」など数々の名作を作曲します。
※ベートヴェンの遺書のファクシミリ(日本語訳が入ったもの)はこちらの売店で購入できます。
第四室「Verdienen」生計
ウィーンで音楽家として生きていくために、ベートヴェンは多くの貴族との交流を持ち、パトロンから生活の支援を受けました。パトロンの一人、皇帝フランツ2世の弟であった「ルドルフ大公」はベートヴェンの弟子であり、親しい友人でした。しかし、彼はパトロンとの主従関係になる事は望まず、自ら出版社と交渉したり、大衆的な音楽を作曲したりとフリーランスな音楽家でもありました。モーツアルトやハイドンとは違い、音楽で生計を立てることに成功したビジネスマンの才能があったわけです。
ベートヴェンの臨終の際に切り取った巻き毛(本物)。化学検査から肺炎の治療のため、大量の鉛塩が摂取されていたことが分かっています。
第五室 「Aufführen」演奏
ベートーヴェンの時代はまだ、コンサートホールがなく、貴族のお屋敷や宮殿内で行われていました。聴衆は招待客のみです。この伝統を守り、今でもウィーンではホームコンサートを開いている元貴族の方々がいます。私も何度かご招待を頂きました。そこには有名な演奏家や未来の音楽家の卵の方々が、コンサート会場とは違った雰囲気で、演奏することを心から楽しみながらも素晴らしい演奏を聴かせてくれます。
第五室にはピアノがあり、ここでも昔のスタイルでコンサートを開催できるスペースがあります。誰でもこの部屋を借りることが出来(有料)ます。置いてあるピアノはウィーンが誇る「ベーゼンドルファー」です。
第六室 「Vermachen」遺産
1827年3月27日 ベートヴェンが亡くなった後にすぐに制作されたデスマスクです。このデスマスクは有名なピアニストでもあり作曲家のフランツ リストが所有していました。葬儀には約2万人の人々が参列するほど、彼はウィーンのスーパースター的存在でありました。また、ベートーヴェンの遺書の家にはライフマスクも展示されています。
いかがでしょうか。ベートーヴェンの人間らしい一面が見えて、よりベートーヴェンの曲が身近に感じられるようになると思います。私も曲の背景などを知れば知るほど、彼の作品が好きになりました。ファンの方でなくても、この博物館は十分に見ごたえがあると思います。
他にも色々と展示物はありますので、じっくりご覧になりたい方は、チケット売り場で日本語解説のガイドブック1を購入されてから見学するのもよいと思います。
下記はベートーヴェンに関する記事です。ご参照ください
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ベートーベンハウス バーデン『第九交響曲』を作曲した家
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