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尾形光琳の影響を受けたクリムトの画法

 

ベルベデーレ宮殿オーストリアギャラリーでは2017年6月1日より写真撮影が解禁されています。グスタフ クリムトの『接吻』の前では名画と一緒に写真撮影をしたい沢山の訪問客でいつも賑わっています

門外不出のこの作品を目の前にすると、画集で見るよりもかなり大きく、その迫力と美しさに圧倒されます。

クリムト自身と生涯ずっと愛し続けたエミーリエをモデルに描かれているという『接吻』は(クリムト自身は人物を特定していません)男女間の幸福の頂点を表現していると言われています。しかし、崖から落ちそうなエミーリエの足元を見ると、クリムトが彼女を失うことへの不安がいつも付きまとっていたことが垣間見えます。

『接吻』はクリムトの黄金時代の最高傑作といわれ、屏風のような正方形のキャンバスサイズ、金箔色と装飾的な模様を多用した豪華で特徴的な画法、2次元の平面的で遠近法のない空間、屏風を連想させる金の縁取り、人物の顔や身体には写実的描写を混合させたクリムトのオリジナリティー高い表現が特徴です。

斬新で19世紀末のユーゲントシュティール(象徴主義)の代表となったこのクリムトの画法が、実は日本画家 尾形光琳の影響を受けていたのをご存知でしょうか

今回は尾形光琳に影響を受けたクリムトについて絵画を比較しながらご案内したいと思います。

引用 Wikipedia

放蕩息子で女性問題が多かった尾形光琳

尾形光琳は江戸時代の画家で、装飾的なデザインを大画面に描く事を得意とし、『琳派』の画法を大発展させた人で日本ではとても有名です。

1658年 尾形光琳は裕福な京都の呉服商の次男として生まれます。5歳年下の弟は有名な陶工師の尾形乾山であり兄弟の共同作品(焼き物)も多々制作しています。

 

光琳が29歳の時父親が亡くなり、光琳を含め兄弟が莫大な遺産を受け取りますが、放蕩息子だった光琳は経済感覚が全くなく数年でお金を使い果たしてしまいます。また女性関係も問題多く、30代の時には4人の子供をそれぞれ別の女性にもうけていたようです。

光琳が一文無しになったころ、頼りたいはずの家業を継いだ兄の呉服屋も借金を踏み倒されて破産してしまいます。弟乾山は光琳とは兄のためにならないと助けませんでした。

仕方なく独り立ちをする決心をした光琳は絵の修行を始め、当時の恋人と結婚をします。元来、絵の才能を持って生まれた光琳は40歳前半には画家として名誉ある位に就くようになったわけです。

幼い頃から芸術に関心が深かった父親の影響で能や書、絵画や茶道、文学など本物の芸術に触れる機会が多かった事は光琳の才能を大きく開花させたようです。

また呉服商で芸術性の高い素晴らしい染物や工芸品を見てきたことはその後光琳の作品へ影響を及ぼしていきます

ところが絵画で生計を立てられるようになった光琳は昔の遊び癖が再発して、また借金を作ってしまいます。パトロンを頼って江戸に移るも、生活のために絵を描き続けることが嫌になり結局弟、尾形乾山がいる京都へ戻ります。兄と対照的に物静かな性格で陶芸家として日々作品を作り続けていた乾山とは、仲が良かったようです。

『琳派』を大発展させた尾形光琳の技法とは?

光琳の名前の一文字を取り『琳派』と呼ばれるデザイン的な画法は桃山時代の俵屋宗達から始まります。師弟関係はありません。自由奔放だった光琳は自由に表現している俵屋宗達を師と仰ぎ、模写を始めて1人で研究し琳派画法を発展させました。

光琳は屏風などの背景には金色のみを使用し、人物や風景などの写実的な要素に、呉服商の家系らしいパターン化された着物のデザインや家紋のような装飾的を取り入れて二次元的に表現しています。絵画というよりはデザイン画の要素が多いのが特徴です。

光琳のパターン化し描かれた梅、松などは光琳模様と呼ばれるようになり、その後も琳派に受け継がれていきます

引用 コトバンク

ウィーン万博での光琳との出会い

尾形光琳はクリムトが生まれる200年前に活躍した人ですから、クリムトは勿論会ったこともありませんし、日本へ来たこともありません。

1873年にウイーン万博が開かれ、日本から出品された光琳の屏風絵『紅白梅図屏風』強い衝撃を受けます。※現在はMOA美術館所蔵です

クリムトはイタリアのヴェネツィアに何度も行き、ラヴェンナにあるサン ヴィターレ聖堂の金を多用したビサンチンのモザイク美術に魅惑されてから金箔を作品に使用するようになっていました。

尾形光琳の『紅白梅図屏風』は梅の幹が写実的、花や川はデザイン的、川の流れは装飾的な要素で描かれています。左の白い梅は上から下に描かれVの字になっていて、年月が経った老いを感じますが、対照的に右の紅い梅は若々しく上へ元気よく伸びています。真ん中に川が流れていることで、時間の流れを表現しているのでしょう。

老いた梅と若い梅は生と死、または男女を表現したものなど、ただ見えるものを描いたのではなく、見る人のその時の精神的状態によって様々に解釈することが出来ます。

光琳がデザイン的な要素の絵画の画法で内面的を表現する方法こそ、クリムトには大きなヒントになったことでしょう。

クリムトも生と死の『命』、男女間を意識した『愛と性』をテーマにした絵画を沢山描いています。絵画を通して表現したいテーマが同じだった事にも共感した事かと思います。

引用 WIKIPEDIA 女の生の3段階

他にも光琳とクリムトにはいくつかの共通点があります。

クリムトは独学で日本の職人並みの金箔技術を修得し、金箔と油絵を融合させる独特の絵画的技法を見事に確立させました。まるで光琳が俵屋宗達の絵をたくさん模写して『琳派』と呼ばれる画法を発展させたようです。

光琳が呉服商の御曹司で美しい着物のデザインや芸術に触れる機会があったように、クリムトの父親は彫金技師であったため金や芸術作品に触れる機会が多かったこと。

自分だけではなく弟も芸術家の道へ進み、合作作品が多いこと。(クリムトは絵を描き、弟ゲオルクは額を制作)

クリムトと光琳の作品はユニークでデザイン性が高いのに、哲学的な要素を含めたテーマがあるため、見る人それぞれが心に向きあい様々な思いを巡らせます。

何よりもクリムトの黄金時代の作品が私達日本人の心に響き人気があるのは、『日本の優雅な伝統』を感じるからではないでしょうか。

『紅白梅図屏風』構図をまねた『アデーレ ブロッホ バウアー』の肖像画

下の2つの絵を比較してみるととても面白いです。もう一度尾形光琳の『紅白梅図屏風』を見てください。2枚目はクリムトが描いた『アデーレ ブロッホ バウアー』の肖像画です。

 

光琳は本作の大部分に金箔を貼り、S字に流れる川に水流を表現するために、渦巻き模様を施し、梅の木の幹は写実的に描いています。

肖像画の構図が光琳の紅白梅図屏風の構図を真似て書かれているのがわかります。

琳派の特徴である渦巻き紋様、流水文様を官能的な女性らしさを表現するためにアレンジしています。

顔は写実的に描き川の部分に2次元に表現しているこの絵画は実在の人物、アデーレブロッホバウアーという女性です。彼女はユダヤ人のお金持ちの人妻でありながらクリムトの愛人でした。非常に魅力的な女性だったらしく、彼女をモデルにした絵を何枚も描いています。

日本で大人気のグスタフクリムトは、万博で尾形光琳との出会いがなければ、オリジナリティー豊かな『黄金時代』画法が確立していなかったとは、以外ですね。

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