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メルク修道院の魅力を知ろう!②

 

メルク修道院の魅力を知ろう!①もご参照ください。

メルク修道院の見どころハイライトというとやはり、バルコニーから見た風景と建物の一体化、だまし絵の天井画がある大理石の間、世界で最も美しいといわれている図書館、バロック様式の豪華絢爛な教会です。その他、博物館にはメルク修道院とオーストリアの歴史上重要な遺物や資料が展示されていますので、ご紹介したいと思います

※残念ながら、修道院内は全て写真撮影が禁止となりました

メルクの守護聖人聖コロマンはスパイ容疑をかけられ死刑になった人!

城下町から続く階段を上りきりとすぐ左に立派な正門があり、そこには2体の大きな石像があります。左はオーストリア最初の聖人で1663年よりメルクの守護聖人である『聖コロマン』の銅像です。

博物館の見学コースの部屋には聖コロマンに関する資料やまだ歯が残っている下あごが納められている聖コロマンの顕示台が映像で見る事が出来る事が出来ます。修道院の貴重な宝物ですので、一般公開は通常されていません。聖コロマンがなぜ聖人になったかといいますと。。ここでその伝説をご紹介しましょう。

1012年アイルランドの王子であった聖コロマンは巡礼の旅の途中、見たことない服装と外国語を話す事からボヘミアのスパイ容疑をかけられ、シュトッケラウの町で拷問にあった後、ニワトコの樹に吊り下げられ絞首刑となりました。彼の遺体は埋葬されずに吊るされたままだったのですが、いつまでたっても腐敗の兆候が見られず、枯れていたニワトコの樹から再び葉が出てきた奇跡が起きました。

そこで2年後の1014年、バーベンベルガーのハインリヒはコロマンの遺体をメルクへ運び、まだ歴史の浅い自分達の領土に聖人として祭ることにしたようです。運命だったとはいえ、まさか巡礼の旅でこの様なハプニングに見舞われるとは聖コロマンも想定外だったと思います。

広く見える中庭は台形だった!

さてこの門の中をくぐり、まっすぐ歩いて2つ目の門をくぐるとまた真ん中に噴水のある中庭があります。

この中庭は奥行きを出して広く見せるための台形をしており、84メートル、42メートルの長さです。四方の屋根には1988年にペータービジョフによって描かれた絵画『賢さ』『智恵』『節度』『正義』が装飾されています。モダンな作品に違和感を感じるお客様も多いですが、色彩豊かでダイナミックな彼の表現とバロック建築のミスマッチがメルク修道院が設立されてから長い年月を超えて今もなお現存している象徴にも思えます。

修道院はハプスブルク家のホテルとしても使用されていた

この中庭をまっすくに行くと左にピンクの可愛らしい皇帝の階段が見えてきます。その階段を上がると博物館に通じています。ハプスブルク家の統治下でメルク修道院は文化や学問のパイオニアとしても発展していきます。また、ホテルがまだ存在していなかった当時、皇帝が旅行をする際には修道院を宿代わりに使用していましたので、選ばれた修道院の内部には皇帝の間がありました。

メルクの十字架の中には何がある?

メルクの十字架(MELKER KREUZ)はこの十字架だけで再びメルク修道院を建てられる高価であると言われる程何世紀もわたって修道院の貴重な宝物です。

この中にはキリストが十字架の貼り付けになったときの十字架の木片がしまわれています。元々ハンガリーの聖シュテファノ王が所有していましたが、1045年アヴァ王がバーベンベルク家のアダルベルトに平和をもたらすために贈られました。ハンガリー人からの侵入を防ぐために東辺境伯として任命されたバーベンベルクはついに勝利を約束されたのでしょうね。

1362年にハプスブルク家のルドルフ4世が十字架のフレームを作らせメルクに寄贈しました。片面には俗世界を表す金と宝石,カメオ、真珠がちりばめられ豪華に装飾されています。もう片面には福音書記者のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが真ん中には十字架に張り付けられたイエスが施されていて、十字架の木片が見られるよう開くことが出来ます。

この貴重な宝物は多くの人から崇拝され、願い事が叶うという言われるようになったそうです。普段御開帳しておらず映像にて紹介されていますが、修道院にとって特別な年には一般公開されます(近年では2014年)

引用 メルクの十字架

このメルクの十字架は2回も盗難に遭った経歴があります。

1度目の盗難は1169年でウィーンのショッテン教会で木片が発見されます。ウィーンとメルクが所有権を巡って争われ、2度の宗教裁審判が実施されています。最初の審判ではショッテン教会院長とメルクの修道院長の間に十字架の木片を立たせ、人間の力を与えずにどちらに倒れるかの審判でした。木片はメルク修道院長の方へ傾きました。

その審判に納得がいかなかったウィーン市民の要望もあり、もう一度はドナウ河に船を浮かべ、木片がどちらに帰りたいかの審判を実施することになりました。ドナウ河の上流にメルク修道院があるため誰もがウィーンの方向へ流れると思っていたのですが、くるっと向きを変えメルクの方向へ船は進んだそうです。誰もが異議を唱えることなく木片はメルク修道院へ返還されました。宗教審判は神が奇跡を与えたと今でも伝説として語り継がれています。

1362年に十字架の木片は2度目の盗難に遭いました。マルク内のエンマースドルフ村に住む裕福な市民グリムシンガーによって盗まれました。彼はプラハのカール6世に売却を試みようとしましたが、文字が書けなかったために書記に書かせたためすぐに泥棒の名前が分かってしまいました。グリムシンガーは逃走中ヤウエルリングにある教会のマリア祭壇の後ろに隠していた所捕まり、木片が無事戻ってきた後すぐに死刑になりました。

古代ローマ帝国が崩壊した後のヨーロッパでは、キリスト教は人々の心の支えになり、中世には聖職者を養成する有力な修道院は地位や権力がありました。メルクの十字架はメルク修道院の権力の象徴だったに違いありません。

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