シシーの幸福な子供時代の思い出地『ポッセンホーフェン』へ行ってみた②

エリザベート

シュタインベルク湖とルードヴィヒ二世

シシーの幸福な子供時代の思い出地『ポッセンホーフェン』へ行ってみた① を参照してください

ポッセンホーフェン城を後にして、シュタインベルク湖のほとりを散策です。対岸は『狂王』で有名なバイエルン王ルードヴィヒ二世が退位した翌日に溺死した場所です。現在は発見された場所に十字架と礼拝堂が建っていますが、ここからは確認することが出来ません。

狂王ルードヴィッヒ二世とはどんな人?

ルードヴィヒ二世はシシーの従兄の息子であり、目の覚めるようなハンサムな顔立ちでした。変わり者で夢想家のイメージが強いです

一国の主である自覚はなかったのか、巨額の金額を投資しておとぎの国のようなノイシュバンシュタイン城など豪華な建築物を次々と建築し、当時、評判の悪かった作曲家ワーグナーの音楽に陶酔して庇護をしていました。

晩年は精神的な病気にかかったとされ、不可解な言動、行動が多くなったと言われています。そのため国王として君臨させ続けるわけにはいかなく退位に追いやられ、ベルク城に送られます。その次の日に、シュタインベルク湖で彼の侍医と一緒に水死体で発見されるというミステリアスな結末を迎えました。※病気ではなく政治的陰謀の罠にハマった可能性もあるという説もあります。

ルードヴィヒ二世のお父さんであったマキシミリアン二世は子供たちを山へ連れて行きましたので、親戚のシシー兄弟姉妹とは幼いころから顔見知りでした。ヴィステルバッハ家の本家と分家の身分であった関係ですから、頻繁に交流があったわけではありません。

神様はこの二人に眩しいくらいの美貌を与えました。美しい二人の子供がシュタインベルク湖で遊んでいる様子を見てみたかった!まるで映画のワンシーンのようでしょうね。

写真引用wikiquote                                                   写真引用kaiserin elisabeth museum

ルードヴィッヒ二世とシシーのバラの島での密会

  シュタインベルク湖沿いに歩いていくと『バラの島』ROSEN INSELがあります。その島はシシーとルードヴィッヒ二世の密会の場所として有名です。

ルードヴィヒ二世の父、バイエルン国王マキシミリアン二世がシュタインベルク湖の真ん中にある島に小さなお城を建てており、自分の世界に陶酔するルードヴィッヒ二世にとって、その小さな島は憩いの場所になりました。ワーグナーのオペラから『トリエスタン号』と名付けた蒸気船に乗って度々訪れ、1500本のバラの花を島に植えバラの香りで島中を充満させました。

私がポッセンホーフェンに行ったこの日は、残念ながらバラの島まで行きませんでしたが、島だけは見なくては!と意気込んで歩き始めます。空いているカフェもレストランに途中寄ってお昼を食べる予定が、湖沿いのレストランはすべてしまってました。。。(シシー博物館が閉鎖しているときは、お休みなのか?観光客もいませんでした)

どこまで行っても透明度の高い湖の真ん中にバラの島が見えてきました!気温は10度もなく寒いのに、まるで南国にポッカリと浮かんでいる島のようです。

密会するようになるまでのいきさつ

1864年国王の急死で18歳で王位についたルードヴィッヒ二世は、同夏、バイエルン州バード・キッシンゲンに療養で来ていたシシーと再会します。人見知りの上にホモセクシャルであったために、子供の頃から女性とは距離を置いてたルードヴィッヒ二世が、8歳年上のシシーに夢中になり、数日滞在の予定が1か月になるほどでした。

シシーと同じく、ルードヴィッヒ二世も夢想家で自由や自然を愛し、自分の世界にのめり込むタイプであったため、自分の夢の世界を唯一理解してくれる理想の人と憧れ、意気投合できたのでしょう。余談ですが、二人とも歯が悪かったようです。これはヴィステルバッハ家の遺伝なのかもしれません。

結婚しても度々ポッセンホーフェンやすぐ近くにあるフェルダフィングのホテルを訪れていたシシーですが、彼女が再びやって来ている知らせを聞くと、ルードヴィッヒ二世は馬にまたがり飛ばして会いに来ました。自分に夢中になるルードヴィヒ二世を心配して、シシーは妹との婚約を勧めます。しかし、2度も結婚式を延期したルードヴィヒ二世に憤慨したシシーは妹を不憫に思い絶交をしてしまいます。10年後、バラの島で二人は再開します!シシーはルードヴィッヒ二世の変貌ぶりに心を痛めました。そしてバラの島での密会が始まるのです。

シシーとルードヴィヒ二世の密会の場所と言っても、二人が顔を合わせることはあまりなく、島にあるお城の引き出しにお互いが書いた手紙を置き交換をするのです。カギは二人だけが持っていました。山に住むルードヴィッヒ二世を『鷹』、自由に憧れ旅行を続けるシシーを『鳩』と呼ぶ手紙の交換はルードヴィッヒ二世が亡くなるまで続きました。

私は恋愛感情がお互いにあったかどうかはあまり重視していません。二人にとって、この手紙のやり取りは、心の叫びややるせない気持ちも含め、共感してくれる唯一の存在として必要だった事でしょう。

幼いころにこの美しいシュタインベルク湖の傍で育ち、この湖で心の友を失い、シシーはスイスのレマン湖で暗殺される。。湖とシシーの運命の因果関係に思いをはせて暫くベンチに座っていました。

ルードヴィヒ二世がベルク城に幽閉されたとき、シシーは助け出そうと思ったのかフェルダフィンクのホテルへ駆けつけています。悲報を聞き泣き崩れたシシーは深い悲しみに打ちひしがれます。その死に対してシシーは『彼は精神病なんかではありません。ただ夢の中に生きただけです』と言っています。

バラの島のお城にある机の上にはシシーからルードヴィッヒ二世宛の手紙が置いてありました。なんとも切ない気持ちになりますね。

ルードヴィヒ二世が亡くなった後、バラの島は暫く放置状態だったようで、現在ある建物は1998年にバラの島150周年記念に建てられたものです。

エリザベートの散歩道からホテル エリザベートへ向かう

シシーがポッセンホーフェンに来た際、良く滞在していたフェルダフィンクのホテル(現在 ホテルエリザベート皇后)に向かいました。看板は出ているが、自然以外に何もなく、大自然の中にあるゴルフ場の傍を歩きました。プレーをしている人はいなかったので、本当にこの道でよいのか森の中で迷いそうで不安になりました

シシーはお父さんであるマックス公爵の性格に一番良く似ていたのは確かです。そのうえ、シシーの母であったルドヴィカも自然や動物が大好きだったため、よく子供達と何時間も森を散歩していました。シシーの自然を愛し、犬好きだったことはお母さんと譲りでもあります。

実際、シシーの両親の仲はさほど良くなかったようです。マックス公爵はほとんど家にいず、外にも多数子供がいました。母親であるルドヴィカは王女でありながら公爵と結婚したため、子供達を自分の手で育て、主がほとんど留守にしている家をしっかりと守ってきたのでしょう。子供達は皆ポッセンホフェンと自然を愛し、成人になっても度々実家を訪れています。

落ち着きがなく、勉強嫌いのシシーは野原をはだしで走り回り、木登りをして遊んでいました。ここもシシーはだしで駆け回っていたのかしら?と考えながら、地図と標識を頼りに歩いていると、ホテルの看板が見えてきました。

看板のすぐ向かいにホテルがありました。現在はゴルフ客のホテルとして経営しているようです。この日は泊り客が殆どいない様子。そのままレストランが開いているか確かめるためにホテルの中庭に入っていきました。

テーブルセッティングはされているのに、本日レストランは休業とのこと!ゴルフの時期ではないですから、仕方ない。レセプションの方にもシシーが宿泊していた部屋はスイートを見せてくださいという機会を逃してしまった。。このホテルにはかつてシシー専用の馬小屋があり、シシーの素晴らしい乗馬技術を褒めたたえる記録が残っているそうです。

中にはシシーの座った銅像があります。

写真引用 WIKIPEDIA 

自分で撮ったシシーの銅像写真が全てピントが合っていなかったので、ここでは写真を引用しました。次回来るときは、夏にしてこのホテルに泊まり、じっくりとエリザベート博物館とバラの島を訪ねてみる予定です。今回は日帰りでウィーンへ戻るため、急いでフェルダフィング駅へ向かいます。駅の構内にやっとカフェを見つけました。名前がルードヴィヒ二世のお父さんマックス2世お父とは。。シシーではないのですね。

ポッセンホーフェンを訪ねて、シシーの自然や自由を愛するルーツに触れることが出来ました。皇后になってから一番多く尋ねたといわれる大自然の中に、シシーは生涯安らぎを求めていたことでしょう。

こちらもご覧ください 参照 アンチエイジングに異常なほど執着したエリザベート皇后

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