ザッハトルテ戦争(裁判)のおかげで有名になったザッハトルテ!

ウィーンのカフェ

オーストリア政府から、外出制限が発表されて一週間が過ぎました。仕事の合間やお客様、家族とカフェにも行かなくなると、『カフェに行って、美味しいコーヒーが飲みたい!』と、時折頭によぎります。

ウィーン子の第二のリビングと言われているカフェが、いつの間にか日本人の私にとっても、第二のリビングになったようです。外出制限が出る前に、最後にお客様と行ったカフェは『ホテル ザッハー』でして、ザッハトルテとメランジェ(オーストリアのカプチーノ)を注文しました。

殆どのお客様は、ガイドブックで勉強されていて、いただく前に『ザッハトルテは甘いですよね。』『ザッハトルテのオリジナルを巡って、デーメルと裁判になったのですよね』と質問される事があります。

甘さは、確かに日本のチョコレートケーキと比べると、かなり強いですが、ウィーンにずっと住んでいるからでしょうか。この甘さがないと、ザッハトルテとしては反対に物足りなく感じるようになっています。

今回は、ザッハトルテを巡った裁判『ザッハトルテ戦争』のいきさつをご紹介したいと思います。

ザッハトルテ戦争!って何?

どちらが本物のザッハトルテか?ホテルザッハ(HOTEL SACHER)かデーメル(DEMEL)

Café Sacher Wien (c) STADTBEKANNT

写真引用stadtwienbekannt

この争いは、ザッハトルテ戦争または、甘い戦争とも言われ、オリジナルトルテを巡って、裁判にまでなった有名なお話です。少々長くなりますが、お付き合いくださいませ(私のブログはいつも長いですね。。)

ザッハトルテは1832年、メッテルニヒが宮廷料理長に、ゲストをもてなすための美味しいデザートを作るよう命じた事が始まりです。料理長が病気だったため、当時、16歳で見習いのフランツ・ザッハにデザートを作らせます。アプリコットジャムをふぁふあのチョコレートケーキに広げ、ダークチョコレートでコーディングしたケーキは、評判が良かったようです。

その後、フランツ・ザッハはブラティスラヴァ、ブタペストで数年間の修行を終え、ザッハトルテをデザートの一つとして作り続けていました。ウィーンに戻ってから、デリカテッセンを開いたフランツ・ザッハーは、新鮮な牡蠣やキャビアと一緒に、ザッハトルテを販売していました。

フランツ・ザッハの長男、エドワード・ザッハは王宮御用達のカフェ『デーメル』で修業し、この時期に、父親であるフランツのザッハトルテのレシピから現在のザッハトルテを完成させます。エドワードはパリ、ロンドンで修行を積んだ後、ウィーンに戻り、いくつものレストランを開きます。1876年には、ホテル『ホテル・デ・オペラ』(現在のホテルザッハ)を開き、ザッハトルテも販売しました。エドワードは実業家として、かなりのやり手だったようですね。

1876 wurde das Hotel Sacher eröffnet

写真引用zdf.de

1892年にエドワードが亡くなった後、未亡人のアンナ・ザッハは経営を続けるのですが、最後は経済危機となり、ホテルを売却します。デーメルで働いてた息子のエドワード(お父さんと同じ名前で混乱を招きますね)は、ザッハトルテの商標権をデーメルに売却しました。しかし、新しいホテル経営者もザッハトルテを売り続けました。ここでついに勃発したのが、オリジナル商標権を巡った7年間続いたザッハトルテ戦争です。

下の写真は、女帝と呼ばれた伝説の女性、アンナ・ザッハ。美食家で、やり手の彼女は、ホテルザッハを瞬く間に著名人、上流階級、皇族の社交界、密会サロンへと変貌させました。葉巻が大好きで、口にくわえながら、ホテルスタッフに短い命令を出す姿は、貫禄たっぷりです
Anna Sacher war Mitglied im Boys-Club, rauchte Zigarren und züchtete Bulldoggen

写真引用zdf.de

アプリコットジャム層が何段?証人発言ではデーメルが有利だった

争いは裁判にまで持ち越されます。ホテル側は、アプリコットジャムが2層になっているホテルのザッハトルテがオリジナルであると主張しました。

このザッハトルテのアプリコットジャムの層に関して、両方の常連客だった作家フリードリヒ・トアベルク氏が証人として裁判所に呼ばれました(下の写真はフリードリヒ・トアベルク氏)

彼は、『アンナ・ザッハの時代、ザッハトルテは真ん中のアプリコットジャムは一度もなかった』と、証言しました。両方のザッハトルテの違いはアプリコットジャムの位置です。ホテルザッハ側は、アプリコットジャムは現在もスポンジの外側と真ん中にサンドされた2層、デーメルはスポンジの外側のみにコーディネートされた1層です。つまり、新経営者の前、ザッハ家の作っていたザッハトルテは、一層だったと言っているのです。

しかし、最高裁判所は、トアベルク氏の証人発言に重きを置かず、『ホテルザッハのザッハトルテがオリジナルである』と判決を下しました。元祖(発祥の地)に重要性を求めたのでしょうね。

それ以来、ホテルザッハの上に「オリジナル・ザッハトルテ」と書かれた丸いチョコレートが、デーメルには「エドワード・ザッハトルテ」と書かれている三角のチョコレートが装飾されています。

この裁判の後、ウィーン中のカフェで、ザッハトルテを作る許可が出たようです。勿論、ホテルザッハ、デーメルともレシピは現在も門外不出ですので、各カフェのオリジナルザッハトルテです。ちなみに『ザッハトルテ・レシピ』とネットで検索すると、一般的なレシピすぐに出てきますので、ケーキ作りが得意な現地の方は、ザッハトルテを焼いてます。

ホテルザッハやデーメルのレシピ、例えばチョコレートの種類と混ぜる割合や、アプリコットなどにもこだわりがあり、これらのオリジナルレシピはホテルザッハの金庫にあります。

しかし、大切なのは『オリジナル ザッハトルテ』を名乗れるのは、ザッハホテルのみだと言うこと

何より、この裁判のおかげで、世界中のマスコミが、ザッハトルテを有名にしたのですから、決して無駄な争いではなかったのではないでしょうか。

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