ウィーンから南へ約26キロメートルに小さいながらもおしゃれな街『バーデン』Badenがあります。ここはローマ時代からすでに温泉保養地として有名で、ハプスブルク家の人々、貴族、著名人、有名な音楽家も度々夏の避暑地として訪れていました。特にベートーヴェンは『バーデン』に何度も滞在をしていました。彼が1821から23の毎夏過ごしていた家は現在『ベートーヴェンハウス』博物館になり、ここで第九交響曲の大半を作曲しています。
一時期はウィーンの南の森ツアー見学の一環で『バーデン』によくお客様をご案内させて頂き、街の散策を30分程していました。最近はバーデンの街のみをじっくり観光するご希望の方が多くなっています。
特に2014年にリニューアルされた『ベートーヴェンハウス』は人気の観光スポットで、ベートーヴェンの生活をそのまま感じる展示物の他、オーディオルームではリアルな音響で第九交響曲を聴くことが出来ます。
今回はバーデンのベートーヴェンハウスの見どころをご案内したいと思います。
もくじ
ベートーベンの部屋
ベートーベンは温泉街として有名な街バーデンに良く訪れ住んでいます。その中でも1821から23年までの毎夏過ごしていたこの家は『第九』の大部分を作曲した家として有名です。
※当時は賃貸には家具が備えつけられていましたので、ベートーヴェンはスーツケース一つで身軽にやってきて住んでします。バーデン内だけでもなんと15回引っ越しをしています。さすが、引っ越し魔のベートーヴェンですね!
ベートーヴェンが住んでいたアパートの部屋は小さな玄関、リビング、寝室があり、庭に続くバルコニーもあります。下の写真はベートーヴェンの寝室を再現したものです。
何故、ベートーヴェンは何度もバーデンの街に来たのでしょうか?それは耳の治療だけでなく、彼は多くの病(腹痛、痛風、リュウマチなど)に悩まされており、お医者様の勧めで、温泉療養と硫黄の温泉水を飲んで少しでも病状を緩和させるために訪れていたのです。その証拠として温泉療養に訪れた名簿には彼の名前が記載されています。実際に病状は良くなりましたが、冬になるとバーデンを離れています。
仕事人間のベートーヴェンは療養に来ても、作曲の手は止めることはありません。天気の良い日にはバーデンを散歩し、曲の構想を練っていました。
ベートーヴェンの仕事部屋
展示されているのはベートーヴェンがこの部屋で書いた彼の健康や、仕事状況についての手紙です。日常的な日課をベートーヴェンは秘書であるアントン シンドラーに書いています。
ベートーヴェンは明け方に起きて、すぐに机に向かい2時から3時ぐらいまで仕事をしました。合間に一度もしくは二度散歩に出かけ、30分から1時間後に新しいアイディアが浮かぶと家へ戻り、またそれを書き残しました。
下にはベートーヴェンが患っていた病気が記されています。お酒が好きでしたから肝臓が悪く、糖尿病、リュウマチ、難聴、腎臓、腰痛、腹痛持ちだったようです。。。この状態で素晴らしい数々の曲を作曲したのには敬服ですね。
彼の仕事部屋はいつも散らかっていて、机の上も物が整頓されていない状態でした。
展示物で今、最も注目されているのは、ベートーヴェンが実際に弾いた事があるハンマークラヴィアではないでしょうか。2019年より生誕250周年に向けて修復が行われ、2019年11月に見事、当時のままの音色を再現してくれました。それまでは演奏する状態ではなかったため、博物館にそのまま展示されていました。
今年バーデンでは皇帝の夏の離宮ではベートーヴェンの特別展示展、コンサートが開催されています。(ベートーヴェンハウスから歩いて2分の場所です)ハンマークラヴィアも今年はベートーヴェンハウスではなく、特別展示会場にあります。下の写真にあるようにベートーヴェンハウスにはハンマークラヴィアが通常設置されていた場所を示しています。
以前の音色を再現するため、その当時の材料、もしくはその当時と同じ材料を時間をかけて探して修復に成功しました。下の動画はその様子のドキュメンテーションです。また修復後、2019年11月、最初のハンマークラヴィアソロ、アンサンブルコンサートの様子も一部見ることが出来ます。
ベートーヴェンと取り囲む人々
ベートーヴェンがバーデンに滞在中、友人、知り合い、生徒、音楽仲間、親族と会う機会がありました。天気の良い日はバーデンやその周辺の森に一緒出かけに散歩に出かけたり、昼食を一緒に取ることもありました。
その反面、ベートーヴェンは人ともめることも多く、気難しい性格の一面も持っています。本来は愛情深く、信用が出来る人柄だとべートーヴェンを知る人は書き残しています。しかし、耳が聞こえないことのストレスが彼の社交性を妨げてしまったようです。
ベートーヴェンの知り合いのエピソードをテーブルセッティングにして解説しています。下はベートーヴェンの生前は身の回りをお世話して秘書と言われたシンドラー。彼の場合はベートーヴェンの会話帳を捏造したりなど現在は評判は良くないですが、亡くなるまで傍にいた人物です。
シンドラーは交響曲第五番『運命』の出だしは、運命が扉をたたく様子を表現したとベートーヴェンが言ったと書き残していましたが、どうもそれも作り話のようです。音楽の先生が話して下さって印象深かったのに残念。。
ベートーヴェンが活躍した時代は、ナポレオン戦争の真っ最中でしたから音楽家として生計を立てるのは容易ではありませんでした。ベートーヴェンがハプスブルク家のルドルフ大公と良い友人であったことは幸運でした。
ベートーヴェンを経済的に援助しただけでなく、音楽の才能に恵まれたルドルフ大公はベートーヴェンの弟子でもあり、音楽を自ら作曲、演奏をしていました。
ベートーヴェンがバデーンで作曲した作品
この家はベートーヴェンが第九交響曲のほどんどの部分を作曲したことで有名ですが、他の作品も手掛けており、オーディオで訊くことが出来ます。
ミサ ソレムニス
訪れている人が一つ、一つ丁寧に聴いているのが印象的でした。
一階にはベートーヴェンの第九交響曲を実際に聴くことが出来ます。実際に作曲された場所で聴く第九交響曲は心に直接響き、とても感慨深くなりました。
彼は既にボンにまだ済んでいた22歳の時、シラーの詩『An der Freude』歓喜に寄すに感銘を受け、いつかこの詩に曲をつけたいと考えていたようです。1824年5月7日 ウィーンケルントナートアー劇場にて交響楽史上初めての合唱を取り入れた初演が行われました。ベートーヴェン自ら指揮を振っておりますが、実際は耳がほとんど聞こえなかったために、代理の指揮者が実際は振っていたようです。
オーケストラの方を見ていたベートーヴェンは演奏が終了した後も、聴衆の拍手が聞こえず、歌手に観客の方を振り向くように促されたとき、聴衆は全員総立ちで興奮して拍手をしている姿を見ました。ここで初めて成功したと実感し、アンコールには4回も呼び出され、警察が動員する騒ぎとまでなったのです。。
アンコールには4回も呼び出され、警察が動員する騒ぎとまでなったのです。
『人々の苦悩と戦いから湧き上がる歓喜と祈りから愛と世界平和へ』
耳が聞こえなくなり、偏屈と言われ孤独だったベートーヴェンは本当は人懐こく、ロマンチックな人でした。『友人や愛する人がいる事が心の平和と幸福をもたらす』曲に込めた晩年のベートーヴェンからのメッセージのようです。
チケット売り場に隣してお土産屋さんがあり、ベートーヴェンの可愛らしいグッズ、CDなどありますので覗いてみて下さい。
ベートーヴェンに関する記事です。こちらもご参照ください
ベートーヴェンの遺書の家「Haus des Heiligenstädter Testaments」
最初のベートーヴェンとシューベルトの墓地『シューベルトパーク』
ベートヴェンフリースとクリムトとベートヴェン!
ベートーベンハウス バーデン
コメント