5月15日国家条約調印式『オーストリアは自由だ!』

オーストリアの日常、行事 習慣 祝日

写真引用 kurier

1955年5月15日は、オーストリア国家条約調印式が行われた非常に重要な日です。

下記の動画はその時の様子です。

4分38秒でオーストリア外相フィーグル氏が、ベルベデーレ宮殿の庭園に駆け付けた、多くのウィーン市民に、調印されたページを見せ、
『エーストライヒ イスト フライ Österreich ist frei!』(オーストリアは自由だ!)
力強く宣言しているを聴くことが出来ます。

オーストリア国家条約とは、どんな意味を持っているのでしょうか、何故、ウィーン市民が動画に聞える、割れんばかりの歓声を上げて喜びを表しているのでしょうか?今回は、オーストリア国家条約調印式に関する話題をご紹介したいと思います。

オーストリア国家条約とは

オーストリア国家条約とは、1955年5月15日 オーストリアが第2次世界大戦後、4か国連合軍による10年間に及ぶ支配(アメリカ、ソ連、イギリス、フランス)から解放され、主権国家と認められた講和条約の事です。

ドイツナチ併合から回復し、永久中立国を宣言した事から国家条約ともいいます。

独立する条件として(本来はもっと細かい条件が沢山ありますが)

・ドイツとの合併禁止
・核兵器など特殊兵器を持たない永世中立国である事
・オーストリアの国境を1938年1月1日に存在したものとする
・少数民族(スロベニア人、クロアチア人)の権利を尊重
・ナチズム、ファシズムの組織禁止

があります。

特に重要な条件は、永世中立国宣言と、ドイツとの合併禁止ですね。この条約によって、ドイツのような、ソ連による『東西分裂』を回避することが出来たわけです。

オーストリアにとっての国家条約は、自国がやっと自分の足だけで立てる記念すべき日です。私はベルベデーレ宮殿の赤大理石の間で、国家条約が行われた場所にあるプレートを見るたびに、その歴史的瞬間を思い、感慨深くなります。

では、オーストリアは何故、ドイツ、ナチに併合される運命を辿ったのでしょうか。こちらについても説明させて頂きますね。

1938年~1945年 オーストリアナチに併合(アンシュルス)

写真引用 wdr.de

第一次世界大戦終了後、ドイツの失業率は30パーセント以上を超えます。この時、経済的に追い込まれた労働者の救世主かのように台頭したのが、ヒットラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)です。1933年にヒットラー政権が成立すると、同じドイツ語を話すオーストリアも統一をして、ヒットラーは強い帝国を築こうと試みます。

当時のオーストリア首相シュウシニックは、併合を何とか避けようとオーストリアのナチを弾圧し、国民投票を行おうとするのですが、3月12日ドイツは最終通達を発し、オーストリアに侵入、シュウシニックは亡命します。

そうして、3月13日ヒットラーは王宮の英雄広場にて、オーストリアドイツ併合を宣言します。その時には写真にあるように、約20万人のウィーン市民が大歓声でヒットラーを迎えてます。

オーストリア一般市民は、なぜ、ヒットラーを大歓迎したのでしょうか。勿論、失業者が40万人以上いましたので、経済的回復は大きいですが、第一次世界大戦後、小国になったオーストリアは、以前のようなハプスブルク帝国のような大国に戻り、他国への名誉挽回も心にあったはずです。

ところが、ドイツ併合直後から、ウィーンにいるユダヤ系市民の迫害が始まります。

ちなみになぜ、ヒットラーはユダヤ人迫害をしたのでしょうか。

ヒットラーにとって、ドイツ人は人種の中で最も卓越した人種『アーリア人』でしたから、純粋な血統を守るために、劣性な人種との結婚は、アーリア人の優秀な遺伝子を少なくすると説きます。

また、ドイツ人の出生率が減少したのは、生粋のドイツ人が住む領土が少ないからだと言い、特にユダヤ人を寄生人種と呼び迫害したのです。ヒットラーにとって劣性人種とはアジア人、スラブ人、アフリカ系ドイツ人であり、彼らも迫害しました。

劣性人種だけではなく、同性愛者や政治犯、身体障碍者の人達も含め絶滅させ、東ヨーロッパに巨大な帝国を築こうと試みたわけです。

労働者の救世主のはずが、実は恐ろしい野望を持っていたわけですね。

オーストリア国民は、軍事に経済が使われたため、経済的に向上するどころか、もっと苦しむことになりました。私はお客様に王宮の前で、このドイツ併合(アンシュルス)お話をする時に、オーストリアの失業者を救うように見せかけて洗脳を試み、オーストリアをドイツの一つの州にして、地図上からオーストリアという国を消してしまったとお話させて頂くことがあります。

ドイツに併合された、オーストリア人は多くのユダヤ人犠牲者を出しました。世界的に有名なカラヤンも『当時はナチになるしかなかった』と語っています。当時はナチに逆らえば、自分達の命の保証がなかったからでしょう。

しかし、現オーストリア大統領バン・デア・ベレンは「わが国はヒトラーの被害国であるとともに、加害国だったという事を決して忘れてはならない」と述べています。

自分達がその当時、オーストリアに生きているオーストリア人でしたら、いったいどんな行動をしたでしょうか。命を懸けて、ナチに抵抗できたでしょうか。人間は、弱いものです。圧力に負け、悪いと分かっていながらも、従う人が多かったと思います。

私は二度とこのような残虐行為が繰り返さないよう、これからも語り続けていく必要があると考えています。

 

1945年~1955年 オーストリア4か国占領時代

1945年の第二次世界大戦終了後、敗戦国となったドイツは、ヒットラーのようなナチ党が、再び結成されないよう、連合軍によって監視されます。東側領土はソ連、北西はアメリカ、イギリス、西側はフランスの管轄下に置かれます。主都であったベルリンは4か国によって分割されました。

オーストリアは、第二次世界大戦の終わりに、ソ連軍がウィーンに侵入して、ウィーンをナチから解放します。その後オーストリア全体が、ナチから解放されるのですが、ドイツに併合されていたため、戦後は連合軍の監視下に置かれます。

ドイツ同様、連合軍であるアメリカ、ソ連、イギリス、フランスによる4各国支配(分割統治)され、ウィーンはベルリンのように4か国によって4分割されてしまうのです。

しかし、オーストリアがドイツのように、東西に建国されなかったのは、オーストリアの祖国の父とも呼ばれる当時の首相カール・レンナーが機敏な政治対策を行ったからです。

ソ連は、75歳で引退していたカール・レンナーを任命して、臨時政府を発足します。ソ連が最初にウィーンの侵入してきたため、4か国の中で、一番影響力が強かったわけです。ドイツや旧東ブロックの国々のように、ソ連の衛星国とする予定だったのでしょう。

カール・レンナーはソ連の言われたままに、重要ポストである内相や国民を監視する警察には、共産党員を導入していますが、実は政権の多数を共産党以外で結成します。

こうして共産党内相が決定した事に対し、他の党員はこどごとく反論していき、思い通りに政治を牛耳らせなかったのです。ついに、第一回総選挙にて、内閣から共産党の占める席を5パーセントまで排除します。

実は、カール・レンナーは、ソ連に騙される振りをしていたのですね!スターリンの、オーストリアを共産圏にしようと試みた思惑とは、全く逆になったわけです。

映画『第三の男』の冒頭は、4か国占領時代に作られているため、一台のジープに乗った各4か国の兵士がウィーン市内をパトロールしているシーンが出てきます。この映画は当初、ウィーン市民には不評でした。この占領時代のシーンがあるためにウィーンの印象が悪くなると、言うのが理由です。

1955年5月15日 国家条約調印式

写真引用 orf.at

戦後はアメリカ対ソ連の冷戦が続いていましたので、独立国となるには、10年かかりますが、

1955年5月15日、ベルベデーレ宮殿赤大理石の間にて、国家条約の調印式が行われ、オーストリアは独立した民主主義の共和国になりました。

ソ連外相 モロトフ、イギリス外相 ミクラマン、アメリカ外相 ダラス、フランス外相 ピネー そしてオーストリア外相 フィーグルによって署名されました。

この調印をフィーグル外相は、バルコニーまで、まるでトロフィーのように持ち上げ、ベルベデーレ宮殿庭園に集まった人々へ向けて『オーストリアは自由だ!』と宣言をします。集まった群衆の歓声と笑い声、そして喜びの涙、オーストリアが主権国家となった瞬間の喜びは、たとえようもないでしょう。

そういった理由から、5月15日、国家条約調印式が行われた日はオーストリアにとって、大変重要なのですね。

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