ホテルザッハーにあるヴィヴァルディのレリーフ

ヴィヴァルディー

ホテルザッハー(Hotel Sacher)はオペラ座のすぐ後ろフィルハーモニカー通りにある5つ星ホテルです。日本でもオリジナルザッハトルテのホテルとして有名ですね。

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ホテルザッハーにつきましては、以前ブログで書きましたので、是非、その記事もご参照くださいね。ザッハトルテ戦争(裁判)のおかげで有名になったザッハトルテ

このザッハーホテルの壁に作曲家ヴィヴァルディが住んでいた事が記されたレリーフがあります。有名なオラトリオ「四季」は誰もが音楽の授業で聴いたことがあると思います。今回はそのヴィヴァルディについての記事です。

イタリア・ヴェネツィア生まれの彼が、晩年はウィーンに住んでいて亡くなった事は、あまり知られてないと思います。その当時、まだザッハーホテルが建っていたなかったにもかかわず、なぜヴィヴァルディがここウィーンに住んでいたと記されているのでしょうか。

ヴィヴァルディはサン・マルコ大聖堂のヴァイオリニストであった父より音楽教育を受けました。幼いころより音楽の才能があったようですが、なぜか15歳の時に聖職者になるため勉強を始めます。

10年後の25歳の時(1703)司祭に資格を得ました。しかし、病気がちのためミサが出来ず、ヴェネツィアの親のいないピエタ女子養育院でヴァイオリン教師となります。また、音楽教育に熱心だったヴィヴァルディは同院のオーケストラを一流のアンサンブルに育て上げます。

同時にたくさんの曲を作曲し、自分もバイオリニストとして演奏活動を始めました。ヴェネツィアを代表する人気のある音楽家となった彼はヨーロッパでも徐々に名声を得ていきます。オペラの作曲も始め、50を超えるオペラを作曲したヴィヴァルディの元へ、各国からヴェネツィアを訪れバイオリンのレッスンを受ける者が多かったようです。

 

各地の有力者ともつながりが強く、特に当時のハプスブルク家の皇帝カール6世はヴィヴァルディのパトロンとして莫大な援助をし続けました。

ところが1737年、ヴェネツィアの教皇領地内でのヴィヴァルディのオペラ上演を禁止されてしまいます。ピエタ女子養育院はヴィヴァルディが不在がちなのに加え、彼の音楽スタイルが変わらないことに不満を募らせていました。

 

そこで1740年、ウィーンへ移り住む決心をしたのですが、頼りの皇帝カール6世が他界すると、喪に服したオーストリアは一年間演奏会を禁止としました。それに加えてオーストリア継承戦争の勃発、聴衆が受け入れる音楽スタイルが変化したため、ヴィヴァルディの作品は徐々に注目されなくなりました。そのため収入は途絶え、貧困のうちにケルントナートア劇場の横にあった、粗末な宿で世を去っています。

そのケルントナートーア劇場のあった場所が現在のホテルザッハーの場所でした。それでここにレリーフが掲げられているのです。

そういったいきさつから、ウィーンで成功する事がなかったヴィヴァルディですが、彼の音楽は今も世界中の人々に愛され、演奏され続けています。

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